ユダヤ系の苗字や名前は3000年以上に及ぶユダヤ民族の歴史と世界各地での離散(ディアスポラ)の経験を反映しています。聖書の時代から現代イスラエルに至るまでユダヤ系の名前は宗教的伝統、文化的アイデンティティ、そして居住地の言語や習慣との相互作用によって形作られてきました。
そして地域としてもイスラエルだけではありません。
ヨーロッパ(アシュケナージ系)、中東・北アフリカ(セファルディ系・ミズラヒ系)、イエメン、エチオピア、インド、中央アジア、そして北米や南米に至るまで世界中のユダヤ共同体はそれぞれ独自の命名伝統を発展させてきました。現在では移民によって世界中の多くの国々でユダヤ系の名前を見ることができます。
ユダヤ系名の概要
ヘブライ語が宗教的・文化的な言語として復活し現代イスラエルの公用語となったように古代ヘブライ語に由来する名前も世界中のユダヤ人コミュニティで広く使われています。世界中に約1500万人のユダヤ人がおり多くが何らかの形でユダヤ的な命名伝統を維持しています。
以下で名前の由来を説明していきますが、ユダヤ系の名前は歴史的に「個人名」のみであり姓(ファミリーネーム)は比較的新しい現象です。多くのユダヤ人家族は18〜19世紀になってから居住していた国々の法律によって姓を採用するよう強制されました。それ以前は「〜の息子(ベン)」「〜の娘(バト)」という形式や出身地、職業などで人々を区別していました。
ジャンルとしては聖書に由来する名前、神の属性に関連する名前、自然や動物に関連する名前、理想的な特性を表す名前、そして居住国の影響を受けた名前など、多様な意味・由来があります。それでは早速見ていきましょう。
聖書に由来する名前
ユダヤ系の名前の最も重要な源泉はタナハ(ヘブライ語聖書、キリスト教の旧約聖書)です。族長、預言者、王、その他の聖書の人物の名前は何世紀にもわたって使われ続けています。
Abraham アブラハム
ユダヤ民族の始祖とされる族長の名前でヘブライ語で「多くの民の父」を意味します。
聖書によれば神は彼の名前をアブラムからアブラハムに変え彼を通して世界中の多くの国々を祝福すると約束しました。現代ではアブラハム、エイブ、エイブラハム、アブラム、アビなどの形で使われています。
アブラハム・リンカーン(アメリカ合衆国第16代大統領、奴隷解放宣言で知られる) エイブラハム・マスロー(アメリカの心理学者、欲求階層説で知られる)
Sarah サラ
アブラハムの妻でイサクの母。ヘブライ語で「公女」を意味します。高齢で子を授かったという聖書の物語から奇跡と信仰の象徴とされています。サラ、サーラ、サリー、サリーナなどの形で世界中で使われています。
サラ・シルバーマン(アメリカの女性コメディアン、脚本家、女優) サラ・ネタニヤフ(イスラエルの心理学者、首相ベンヤミン・ネタニヤフの妻)
David ダヴィド(デイビッド)
イスラエルの偉大な王の名前でヘブライ語で「愛されている」を意味します。聖書ではゴリアテとの戦いや詩編(詩篇)の作者として知られています。
ダヴィデの星(六芒星)はユダヤのシンボルとなっており現代イスラエルの国旗にも描かれています。ダヴィド、デイビッド、デイブ、ドードなどの形で広く使われています。
デイビッド・ベン=グリオン(イスラエル建国の父、初代首相) ダヴィド・グロスマン(イスラエルの作家、平和活動家)
こちらはイスラエルの建国者ベングリオンのスピーチ。
Rachel ラヘル(レイチェル)
族長ヤコブの最愛の妻でヨセフとベニヤミンの母。
ヘブライ語で「雌羊」を意味します。聖書では彼女の美しさと子を産むための苦闘が描かれています。ラヘル、レイチェル、ラケルなどの形で広く使われています。
レイチェル・ワイズ(イギリス出身の女優、「ファウンテン」「コンスタンティン」などに出演) ラヘル・ヤナイト・ベン=ツヴィ(イスラエルの知識人、第2代大統領イツハク・ベン=ツヴィの妻)
Solomon シュロモ(ソロモン)
ダヴィド王の息子で知恵と繁栄で知られるイスラエルの王。
ヘブライ語で「平和」を意味します。聖書では彼の知恵、富、エルサレム神殿の建設が描かれています。シュロモ、ソロモン、ソル、ザルマンなどの形で使われています。
ソル・ベロー(アメリカの作家、ノーベル文学賞受賞者) シュロモ・アルティネリ(イスラエルの数学者、コンピュータサイエンスの先駆者)
こちらはソロモン宮殿の様子。
Deborah デボラ(ドヴォラ)
イスラエルの女預言者にして裁判官(士師)。ヘブライ語で「蜂」を意味します。聖書では彼女の知恵、リーダーシップ、カナン人との戦いにおける勝利が描かれています。デボラ、ドヴォラ、デビー、デバなどの形で使われています。
デボラ・リプシュタット(アメリカのホロコースト研究者、著述家) ドヴォラ・オヴァディア(イスラエルの裁判官、イスラエル最高裁判所の判事を務めた)
神の属性と関連する名前
ユダヤ教において神の名前は非常に神聖であり直接的な神の名前を名付けることは避けられますが、神の属性や神との関係を反映した名前は多く存在します。
Eliezer エリエゼル
ヘブライ語で「私の神は助け」を意味します。聖書ではアブラハムの僕の名として登場しイサクの妻を見つける役割を果たしました。現代ではエリエゼル、エルアザル、ラザルスなどの形で使われています。
エリエゼル・ベン=イェフダ(近代ヘブライ語の復活に貢献した言語学者、辞書編纂者) エリエゼル・シュタインバーグ(ユダヤ教の倫理学と哲学の学者)
Nathaniel ナタニエル
ヘブライ語で「神が与えた」を意味します。聖書では様々な人物の名前として登場します。ナタニエル、ナタン、ジョナサン(ヨナタン、「神が与えた」の別形)などの形で使われています。
ナタン・シャランスキー(ソビエト時代の反体制活動家、後にイスラエルの政治家に) ジョナサン・サフラン・フォア(アメリカの作家、「Everything Is Illuminated」の著者)
Raphael ラファエル
ヘブライ語で「神は癒した」を意味します。ユダヤ教の伝統では大天使の一人とされ医療や癒しの守護天使と考えられています。ラファエル、ラフィ、ラルフなどの形で使われています。
ラファエル・パタイ(ハンガリー出身のユダヤ系人類学者、歴史家) ラフィ・エイタン(イスラエルの軍人、政治家、諜報機関モサドの作戦主任を務めた)
Michal ミカル
ヘブライ語で「誰が神のようであろうか」(修辞疑問文として「誰も神のようではない」の意)を意味します。聖書ではサウル王の娘でダヴィドの妻として登場します。ミカル、ミカエラなどの形で主に女性名として使われています。男性形はミカエル(ミハエル)です。
ミカル・ネゲヴ(イスラエルの女優、映画「フットノート」に出演) ミカル・アドルマン(イスラエルの女性実業家、テクノロジー企業の創業者)
Emmanuel エマニュエル(イマヌエル)
ヘブライ語で「神は我らと共に」を意味します。聖書の預言書イザヤ書に登場しキリスト教ではイエス・キリストを指す預言とされています。ユダヤ教では単に神の存在が常に共にあることを表す名前として用いられます。エマニュエル、マヌエル、マニーなどの形で使われています。
エマニュエル・レヴィナス(リトアニア出身のユダヤ系フランス哲学者、倫理学者) イマニュエル・ヴァイスグラス(ルーマニア出身のユダヤ系詩人、ホロコースト生存者)
自然と動物に関連する名前
自然界の美しさや動物の特性に関連する名前も古代から現代に至るまでユダヤ系の命名において重要な役割を果たしています。
Ari アリ
ヘブライ語で「ライオン」を意味します。ユダヤの伝統においてライオンはユダ族のシンボルとされ強さと威厳の象徴です。アリ、アリエ、レオ、レオン、イェフダ(「ユダ」、「ライオン」と関連)などの形で使われています。
アリ・シャヴィット(イスラエルの歴史家、作家、「約束の地」の著者) アリエ・デリ(イスラエルの政治家、シャス党の指導者)
Tamar タマル
ヘブライ語で「ナツメヤシ」を意味します。ナツメヤシの木は砂漠での生存と繁栄のシンボルでその果実は古代から重要な食料源でした。聖書では複数の女性の名前として登場します。タマル、タマラなどの形で主に女性名として使われています。
タマル・エシュケル(イスラエルの女優、「ウォーク・オン・ウォーター」に出演) タマル・ロス=ペレド(イスラエルの科学者、物理学者)
Tzipporah ツィッポラ
ヘブライ語で「小鳥」を意味します。聖書ではモーセの妻の名前です。ツィッポラ、ツィッピ、シポラなどの形で使われています。英語ではBirdieも関連する名前です。
ツィッピ・リヴニ(イスラエルの政治家、元外務大臣) ツィッポラ・ジョセロウィッツ(アメリカのユダヤ系フェミニスト作家、活動家)
Dov ドヴ
ヘブライ語で「熊」を意味します。熊は力強さのシンボルとして尊重されています。ドヴ、ベアー(イディッシュ語で「熊」)、バーニーなどの形で主に男性名として使われています。
ドヴ・ベアー(別名バーリ)・シュニアーソン(ハバード派ハシディズムの第7代レベとして知られるユダヤ教指導者) ドヴ・フレドキン(イスラエルの映画監督、脚本家)
Ayala アヤラ
ヘブライ語で「雌鹿」を意味します。鹿はその優雅さと素早さで知られ詩篇では魂が神を求める姿が鹿に例えられています。アヤラ、アイレットなどの形で女性名として使われています。男性形はアヤル(「雄鹿」)です。
アヤラ・プロシャンスキー(イスラエルの女性映画監督、「イヴの息子たち」の監督) アヤラ・ゾルバーグ(イスラエル系アメリカ人の俳優、作家)
理想的な特性と価値観を表す名前
多くのユダヤ系の名前は文化的に重要視される特性や価値観を反映しています。
Shalom シャローム
ヘブライ語で「平和」「調和」「完全性」を意味します。挨拶としても使われる言葉でユダヤ文化において最も重要な概念の一つです。シャローム、ソロモン(シュロモ、語源は同じ)、シェリー、シロミなどの形で使われています。
シャローム・アレイヘム(イディッシュ語の作家、「屋根の上のバイオリン弾き」の原作者) シャローム・ハルロウ(イスラエル生まれのアメリカの精神科医、心理学者)
Chana ハナ(チャナ)
ヘブライ語で「恵み」「優雅さ」を意味します。聖書では預言者サムエルの母親の名前で不妊に苦しんだ末に神に祈り子を授かりました。ハナ、アナ、アン、ハンナなどの形で主に女性名として広く使われています。
ハンナ・アーレント(ドイツ生まれのユダヤ系アメリカ人哲学者、政治理論家) ハナ・センエシュ(ハンガリー出身のユダヤ人詩人、パレスチナからナチス占領下のヨーロッパに潜入した抵抗運動家)
Simcha シムハ
ヘブライ語で「喜び」「幸福」を意味します。ユダヤ教では喜びは重要な宗教的義務の一つとされています。シムハ、シムチャ、サムソンなどの形で使われ男女両方の名前になりえます。
シムハ・フラプキン(イスラエルの裁判官、最高裁判事を務めた) シムハ・ディニッツ(イスラエルの外交官、駐米大使を務めた)
Tova トヴァ
ヘブライ語で「良い」「素晴らしい」を意味します。トヴァ、トビー、トバイアスなどの形で使われています。男性形はトヴ(トブ)です。
トヴァ・フェルドシュー(アメリカのユダヤ系女優、「ブロードウェイと銃弾」などに出演) トヴァ・レイク(イスラエル系アメリカ人の企業家、ファッションデザイナー)
Emet エメット
ヘブライ語で「真実」「誠実」を意味します。
ユダヤの伝統において真実は最高の価値の一つとされています。エメット、アミタイなどの形で主に男性名として使われています。
エメット・クレイン(アメリカのユダヤ系映画監督、脚本家) アミタイ・エツィオーニ(ドイツ生まれのイスラエル系アメリカ人社会学者)
ディアスポラの影響を受けた名前
離散(ディアスポラ)の歴史を通じてユダヤ人は居住した国の言語や文化から影響を受けた名前も採用してきました。
Ashkenazi アシュケナジ系の名前
中東欧のユダヤ人コミュニティではしばしばイディッシュ語や現地語の名前が使われました。
Mendel メンデル
イディッシュ語で「小さなマン(マナヘム)」を意味します。メンデル、マニー、マンフレッドなどの形で使われています。
メンデル・メナヘム・シュニアーソン(リュバヴィッチのレベとして知られるハシディズム指導者) グレゴール・メンデル(修道士でありながらユダヤ系の祖先を持つと言われる遺伝学の創始者)
Gittel ギッテル
イディッシュ語で「良い」「優れた」を意味します。ギッテル、ゲルトルード、ゴルダなどの形で使われています。
ゴルダ・メイア(イスラエル初の女性首相、第4代首相) ギッテル・フェンスター(ユダヤ教女性教育の先駆者)
Sephardic セファルディ系の名前
イベリア半島からの離散後、中東、北アフリカ、バルカン半島などに定住したセファルディ系ユダヤ人はスペイン語、ポルトガル語、アラビア語などの影響を受けた名前を使用しました。
Mercado メルカド
スペイン語で「市場」を意味し商人の職業に由来する姓です。
エンリケ・メルカド・コーエン(メキシコのユダヤ系企業家、慈善家) ラケル・メルカド(スペイン系ユダヤ人の芸術家)
Maimon マイモン
アラビア語の「幸運」「祝福された」を意味します。最も有名なのは中世の哲学者マイモニデス(ラビ・モーゼス・ベン・マイモン)の父の名です。
マイモン・シュワルツシルド(ドイツのユダヤ系天文学者、物理学者) ラヘル・マイモン(イスラエルの政治家、女性の権利活動家)
現代の融合的な名前
現代では多くのユダヤ人家族がユダヤの伝統と居住国の文化を融合させた名前を選んでいます。
Ariel アリエル
ヘブライ語で「神のライオン」を意味しますが、シェイクスピアの「テンペスト」のキャラクターや「リトル・マーメイド」のディズニープリンセスとしても知られ国際的に人気があります。
アリエル・シャロン(イスラエルの軍人、政治家、第11代首相) アリエル・ドルフマン(チリのユダヤ系作家、人権活動家)
Maya マヤ
ヘブライ語で「水」を意味し、また様々な文化の神話にも登場する国際的な名前です。
マヤ・アラド(イスラエルの女性起業家、テクノロジー分野の先駆者) マヤ・コーネン(オランダのユダヤ系映画監督)
歴史的・文化的背景を持つ姓
ユダヤ系の姓は宗教的役割、職業、地理的起源など様々な源泉から来ています。
Cohen コーエン
「祭司」を意味し聖書時代の神殿で奉仕する祭司階級の子孫を示します。
コーエン、カッツ(コーエン・ツェデク「正義の祭司」の略)、カガン(スラヴ語圏でのコーエンの変形)などの形で世界中のユダヤ人の間で最も一般的な姓の一つです。
レナード・コーエン(カナダのユダヤ系ミュージシャン、詩人、「ハレルヤ」などの名曲で知られる) サーシャ・バロン・コーエン(イギリスのユダヤ系コメディアン、俳優、「ボラット」などで知られる)
サーシャ・バロン・コーエンのボラット。
Levy レヴィ
聖書のレヴィ族に由来し神殿での奉仕を担った部族です。コーエン(祭司)を補佐する役割を持っていました。レヴィ、レヴィン、レヴィット、レヴィンソンなどの形があります。
スティーヴン・レヴィット(アメリカのユダヤ系経済学者、「ヤバい経済学」の著者) リタ・レヴィ=モンタルチーニ(イタリアのユダヤ系神経学者、ノーベル医学・生理学賞受賞者)
Goldberg ゴールドバーグ/Goldstein ゴールドスタイン
「金の山」「金の石」を意味するイディッシュ語・ドイツ語起源の姓。宝石商や金融業に従事していた家族に多く見られます。ゴールドバーグ、ゴールドスタイン、ゴールドマン、ゴールドなど様々な形があります。
ウーピー・ゴールドバーグ(アメリカの女優、コメディアン、「ゴースト」「天使にラブ・ソングを…」などで知られる) アドリー・ゴールドスタイン(アメリカのユダヤ系ラビ、作家、ユダヤ思想の現代的解釈で知られる)
Shapiro シャピロ
「美しい」を意味するイディッシュ語起源、またはロシアのシャピロフ都市に由来するとされる姓。シャピロ、シャピラ、シャピール、サピアなどの形があります。
ロバート・シャピロ(アメリカのユダヤ系弁護士、O.J.シンプソン裁判の弁護団として知られる) イツハク・シャピラ(イスラエルの作家、教育者)
Ben-Gurion ベン=グリオン
「ライオンの子」を意味するヘブライ語の姓。やはり最も有名なのは既に上記でも例に出したイスラエル建国の父、初代首相デイビッド・ベン=グリオン。ちなみに調べてみたところ彼は元々グリーンという姓でパレスチナ(現在のイスラエル)に移住後に姓をヘブライ語化したそうです。
「ベン」(息子)で始まる姓はヘブライ語の復活とともに多く作られました。
デイビッド・ベン=グリオン(イスラエルの政治家、建国の父、初代首相) ヤコフ・ベン=ドヴ(イスラエルの初期の映画製作者、ドキュメンタリー映画の先駆者)
名前の地域的特徴
ユダヤ人は世界中に散らばり各地域で独自の命名パターンを発展させてきました。
イスラエルの特徴
現代イスラエルではヘブライ語の名前が最も一般的です。聖書に由来する伝統的な名前と新しく作られたヘブライ語の名前の両方が人気です。
聖書の名前:ノア、アダム、アヴィガイル、ダニエル、ヨセフなど
現代ヘブライ語の名前:タル(「露」)、リリ(「私のもの」)、オル(「光」)、ガル(「波」)など
初期のパイオニア精神を反映した名前:ニル(「開墾」)、アロン(「松」)、アミット(「仲間」)など
北米のユダヤ系コミュニティの特徴
アメリカやカナダのユダヤ人家族はユダヤの伝統と北米文化を反映した名前を選ぶ傾向があります。
ヘブライ語と英語で似た発音の名前:ノア、エイダン、ハンナ、サムなど
英語化された形の名前:ジェシカ(イスカに由来)、マイケル(ミカエルに由来)など
多文化的名前:アリア、ライラ、ゾーイなど様々な文化で受け入れられる名前
ヨーロッパのユダヤ系コミュニティの特徴
現代のヨーロッパのユダヤ人は地域の文化と融合しながらもユダヤの伝統を保持する名前を選ぶことが多いです。
二重の文化を反映した名前:ダニエル/ダニエール、ハンナ/アンナ、ダヴィド/ダヴィデなど
ホロコースト以前の家族名の復活:戦争で失われた親族の名前を新世代に付ける伝統
セファルディ系の名前の復興:特にスペイン、ポルトガルなどでの市民権回復プログラムに関連して
命名の伝統と慣習
ユダヤ人の命名には何世紀にもわたって引き継がれてきた特別な伝統と慣習があります。これらは宗教的な意味合いだけでなく家族の絆やコミュニティの連続性を強調するものです。
アシュケナジの命名慣行
中東欧のアシュケナジ・ユダヤ人の間では亡くなった親族の記憶を称えるために子供に故人と同じ名前を付ける慣習があります。
通常、子供には亡くなった祖父母や親族の名前が付けられます。
生きている親族と同じ名前を子供に付けることはその人が長生きできないというジンクスがあるため避けられます。
多くの場合、名前の最初の文字だけを取り入れることもあります(例:祖父サムエルにちなんで孫をショーンと名付けるなど)。
セファルディの命名慣行
イベリア半島起源のセファルディ・ユダヤ人の間では生きている親族の名前を子供に付ける慣習があります。
長男には父方の祖父の名前、長女には母方の祖母の名前を付けることが多いです。
次男には母方の祖父の名前、次女には父方の祖母の名前を付けることが一般的です。
この慣習により特定の名前が何世代にもわたって家族内で繰り返し使われることになります。
宗教的な命名式
ユダヤ教では子供の命名に関連した特別な儀式があります。
男児:割礼(ブリト・ミラー)の儀式中に公式に名前が与えられます。通常は生後8日目に行われます。
女児:トーラーの読誦(シナゴーグでの礼拝)の際に「ベイビー・ネイミング」や「シンハット・バット」(娘の喜び)の儀式で名前が公表されます。
ヘブライ語名の重要性
多くのユダヤ人は世俗的な名前(キンネーム)とヘブライ語名(シェム・コーデシュ)の両方を持っています。
ヘブライ語名は宗教的な場面(トーラーに呼ばれるとき、結婚式、祈りなど)で使用されます。
通常、ヘブライ語名には父親の名前が加えられます(例:ダヴィド・ベン・ヤコブ「ヤコブの息子ダヴィド」、サラ・バット・アブラハム「アブラハムの娘サラ」)。
ディアスポラでは多くのユダヤ人が公的な場では世俗的な名前を使い、宗教的・家族的な場ではヘブライ語名を使うという二重の命名システムを持っています。
ユダヤ系の姓の起源と変遷
ユダヤ人の姓(ファミリーネーム)の採用は比較的新しい現象で、18世紀末から19世紀にかけて欧州の様々な法令によって強制されました。それ以前はユダヤ人は主に父称(〜の息子)で識別されていました。
姓の採用過程
欧州各地でユダヤ人に姓の採用が義務付けられた時期と背景は次のとおりです。
オーストリア帝国:1787年、ヨーゼフ2世の法令によりユダヤ人は姓の採用を義務付けられました。
フランス:1808年、ナポレオンの法令によりユダヤ人は姓の登録が必要となりました。
ロシア帝国:1804年から1835年にかけて様々な法令によりユダヤ人の姓の採用が義務化されました。
プロイセン:1812年の市民権法によりユダヤ人は姓の採用と登録が求められました。
姓の種類と由来
ユダヤ系の姓は様々な源泉から派生しています。
- 宗教的役割や系統に基づく姓
コーエン、カッツ、カガン(神殿の祭司階級)
レヴィ、レヴィット、レヴィン(神殿での奉仕を担ったレヴィ族)
イスラエル、イスラエルソン(イスラエルの子孫を意味する)
- 地名に由来する姓
ベルリン、ウィーン、ポズナー(ポズナン出身)、シャピロ(シャピロフ出身)
ポーランド、リトバク(リトアニア出身)、ドイッチ(ドイツ出身)
セファルディ(スペイン出身)、アシュケナジ(ドイツ出身)、ミズラヒ(東方出身)
- 職業に由来する姓
シュナイダー/テイラー(仕立て屋)、カウフマン(商人)
ゴールドシュミット(金細工師)、メッツガー(肉屋)
ゾーラー(学者)、カントール(聖歌隊指揮者)、シャマシュ(シナゴーグの管理人)
- 個人的特徴に由来する姓
グロス/グレート(大きい)、クライン/リトル(小さい)
ロート/レッド(赤い、赤毛)、シュヴァルツ/ブラック(黒い、黒髪)
シェーン/ビューティフル(美しい)、グート/グッド(良い)
- 頭字語的な姓
一部のユダヤ系の姓は頭字語(アクロニム)から来ています。
サッツ(Zera Anashim Tzadikim「正義の人々の子孫」)
カッツ(Kohen Tzedek「正義の祭司」)
バッシュ(Ben Shimshon「シムソンの息子」)
姓の変更と適応
移民の過程で多くのユダヤ系の姓が変更されました。
移民官による変更:エリス島などの入国港で発音が難しい姓が簡略化されることがありました(例:ラビノヴィッチ→ラビン)。
自発的な変更:反ユダヤ主義を避けるため、または社会への同化を促進するために姓を変更する場合がありました(例:ゴールドスタイン→ゴールド)。
ヘブライ語化:イスラエル建国後、多くの移民がヨーロッパの姓をヘブライ語の姓に変更しました(例:グリーン→ベン・グリオン「ライオンの子」)。
現代の命名トレンド
21世紀のユダヤ系の名前は伝統と革新の間でバランスを取っています。世界中のユダヤ人コミュニティで見られる現代的なトレンドには以下のようなものがあります。
イスラエルの新しいトレンド
現代イスラエルでは伝統と現代性が融合した名前が人気です。
短くて発音しやすい名前:ノア、マヤ、ヤエル、ガル、トム、リー
自然にちなんだ名前:タル(露)、ヤム(海)、シャハル(夜明け)、アロン(松)
ユニセックス名:オル(光)、シャイ(贈り物)、ユヴァル(小川)
伝統的な名前の現代的な変形:リアム(ウィリアムのヘブライ語形)、ミカ(ミカエルの短縮形)
北米のユダヤ系コミュニティのトレンド
アメリカやカナダのユダヤ人家族はユダヤのルーツを反映しつつも主流文化と調和する名前を選ぶ傾向があります。
聖書の名前の現代的な形:エラ(エロヒム「神」から)、アサ(医者の意)、イーサン(強い、堅固な)
ヘブライ語と英語で同様に機能する名前:ノア、サム、ナオミ、ルース、アダム
イスラエル的でありながら国際的な名前:マヤ、アリ、タリ、ダニ、ネヴァ
ユダヤの伝統の復活
多くのユダヤ人家族が以前は「古風」と見なされていた伝統的な名前に回帰しています。
イディッシュ名の復活:モーシェ、メンデル、ゴルダ、イッツィクなどかつては「祖父母の名前」と見なされていたものが若い世代で復活
セファルディ系とミズラヒ系の名前の再評価:ルナ、オルリ、サッソン、モルデハイなど
ホロコースト以前の命名伝統の回復:多くの家族が第二次世界大戦で失われた名前を意識的に復活させている
翻字と発音
ヘブライ語やイディッシュ語の名前をラテン文字で表記する際には様々な翻字システムが存在します。
「ハ」の音:Chaimと表記されることもあれば、Haimと表記されることもあります
「ツ」の音:Tzipporahはフランス語ではTziporaとなり、英語ではZipporahとなることもあります
国際的な標準化の動き:特にパスポートや公式文書において翻字の標準化が進んでいます
おわりに
ユダヤ系の名前は3000年以上といわれる長い歴史と世界中での離散(ディアスポラ)の経験を映し出す鏡ともいえるかもしれません。それらは宗教的価値観、文化的アイデンティティ、家族の伝統、そして居住した国々との相互作用の歴史を現しています。
古代ヘブライ語の名前が現代イスラエルで復活し、イディッシュ語やラディーノ語(ユダヤ・スペイン語)の名前が新世代によって再発見されるというのはかなり他の民族と比べても特殊な歴史といえるでしょう。
また、ユダヤの伝統においては名前は人格の本質と運命に関わるものとも考えられてきました。
古代の賢者の言葉「人の名前は彼の本質である」(「シュモ フー」)は今日でも多くのユダヤ人家族が子供の命名に臨む際の指針となっているようです。